LOGIN「お前、まさか……男がいるのか?」
ヴィンセントの言葉に、エレノアは思わず目を瞬かせた。
何を言い出すのかと思えば、あまりにも馬鹿げた疑いだった。
「どうして、そうなるのですか?」
「夫との同衾を拒むなど、ほかに理由があるまい!」
ヴィンセントは怒りを隠そうともせず、エレノアに詰め寄った。
「結婚したばかりだというのに、もう別の男に心を移したのか!」
「ヴィンセント様。私たちは昨日結婚したばかりですわ」
「だから何だ!」
「昨日結婚したばかりの私が、いつ別の殿方と親しくなる暇があったというのでしょう?」
ヴィンセントは一瞬、言葉に詰まった。
だが、すぐに険しい表情を取り戻した。
「結婚前からの知り合いということもあるだろう!」
「まあ。それでは、私が結婚前から不貞を働いていたとおっしゃるの?」
「そうは言っていない!」
「では、何をおっしゃりたいのでしょう」
エレノアは静かに問い返した。
前の人生では、ヴィンセントに疑われるたびに必死で弁解したものだ。
けれど、どれほど身の潔白を訴えても、彼は耳を貸さなかった。
だから、今度は必要以上に弁解するつもりはなかった。
「お兄様、落ち着いてくださいませ!」
リリアーナが慌てたようにヴィンセントの腕にすがった。
「私が余計なことを言ってしまったばかりに……。エレノア様、ごめんなさい。私、そんなつもりではなかったの」
その大きな瞳には、また涙が浮かんでいる。
「ただ、エレノア様があまりにもお兄様を嫌がっていらっしゃるから、もしかしたらと思って……」
「そうね」
エレノアはうなずいた。
「確かに、私はヴィンセント様と寝室を共にしたくないと思っているわ」
「エレノア様……!」
「けれど、それとほかに好きな方がいるかどうかは、まったく別の話でしょう?」
リリアーナは困ったように眉を下げた。
「でも、夫婦なのですから……」
「夫婦ならば、必ず寝室を共にしなくてはならないの?」
「それは……」
「では、昨夜ヴィンセント様があなたのお部屋で過ごされたのは、どういうことなのかしら」
リリアーナの顔が、さっと青ざめた。
「そ、それは、私の具合が悪かったからで……!」
「ええ、存じているわ。責めているわけではないのよ」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「ただ、夫婦だから寝室を共にしなければならないというのなら、結婚初夜に妻をひとりにしたヴィンセント様は、どうなるのかしらと思っただけ」
「エレノア!」
ヴィンセントが声を荒らげた。
「リリアーナを責めるのはやめろ!」
「責めておりませんわ」
「屁理屈ばかり並べおって!」
エレノアは小さく息を吐いた。
何を言っても、結局はこうなる。
ヴィンセントはリリアーナを守り、エレノアを責める。
前の人生と、何ひとつ変わらなかった。
「お話はそれだけでしょうか」
「何?」
「私は少し疲れましたので、休ませていただきたいのです」
「まだ話は終わっていない!」
「ですが、私はもう申し上げることがございませんわ」
エレノアは立ち上がった。
「リリアーナ様も、どうぞお戻りくださいませ。お身体が弱いのですから、無理をなさらないほうがよろしいでしょう」
「エレノア様……」
リリアーナは悲しそうにうつむいた。
だが、エレノアはもう彼女を慰めなかった。
自分の言葉で傷ついたというのなら、それは彼女自身の問題だ。
エレノアが引き受ける必要はない。
「待て」
扉へ向かおうとしたエレノアを、ヴィンセントが呼び止めた。
「今夜は必ず、お前の寝室へ行く」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「妻としての務めを果たすまで、私は引き下がらん」
エレノアは足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返った。
「……私が嫌だと申し上げても?」
「当然だ。お前は私の妻なのだから」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの背筋が冷たくなった。
前の人生でも、そうだった。
どれほど疲れていても、体調が悪くても、ヴィンセントは妻としての務めを求めた。
彼にとって、エレノアの意思など関係なかったのだ。
だからこそ、今度は絶対に許してはならない。
「お断りいたします」
エレノアは、はっきりと言った。
「私は、あなたの所有物ではございません」
「……何だと?」
「公爵夫人である前に、ひとりの人間ですわ。私の身体をどうするかは、私が決めます」
ヴィンセントは、信じられないものを見るようにエレノアを見つめた。
その隣で、リリアーナが不安そうに彼の腕を握りしめている。
「エレノア様……どうしてそんなに頑なになってしまわれたの……?」
エレノアは答えなかった。
答える必要など、なかったからだ。
ただひとつ、わかったことがある。
この男は、話し合いだけで諦めるような相手ではない。
今夜までに、何か手を打たなくては。
◇
「テオドール」
自室に戻ったエレノアは、護衛騎士を呼んだ。
「お願いがあるの」
「何でしょうか」
「今夜、私の寝室の前にいてほしいの」
テオドールは静かにうなずいた。
「承知いたしました」
「……理由を聞かないの?」
「昨夜、お話をうかがいましたから」
その答えに、エレノアは胸が温かくなるのを感じた。
ヴィンセントは、妻であるエレノアの言葉を信じようともしない。
それなのに、テオドールは理由を問い詰めることなく、彼女の意思を尊重してくれる。
「ありがとう」
「ですが、エレノア様」
テオドールは、少しだけ表情を曇らせた。
「公爵閣下が強くお望みになった場合、私の立場ではお止めできないかもしれません」
「……そうね」
エレノアも、それは理解していた。
テオドールはヴァレンティア伯爵家から付き従ってきた護衛騎士だ。
この屋敷の主人であるヴィンセントに逆らえば、職を失うだけでは済まない可能性もある。
彼を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。
「あなたに無理をさせるつもりはないわ」
「ですが、私は……」
「大丈夫よ。別の方法も考えるから」
エレノアは微笑んだ。
ただ寝室の扉を守ってもらうだけでは、一年間を乗り切ることなどできない。
もっと確実な方法が必要だった。
そして、そのためには――。
「テオドール。明日、実家に手紙を出したいの」
「ヴァレンティア伯爵様に、ですか?」
「ええ。お父様に相談したいことがあるの」
前の人生では、夫に嫌われることを恐れ、実家に助けを求めることさえしなかった。
けれど、今度は違う。
エレノアには、まだ頼れる人がいる。
そして、守るべきものもある。
「まずは、今夜を乗り切らなくてはね」
エレノアは窓の外を見つめた。
夕暮れが近づいている。
ヴィンセントが寝室を訪れるまで、あと数時間。
エレノアは、静かに決意を固めた。
今度こそ、絶対にあの男には触れさせない。
たとえ、どんな手を使ってでも。
「その格好で来たのか?」 翌朝、ヴィンセントはエレノアを見るなり顔をしかめた。 エレノアは思わず自分のドレスに目を落とした。 昨日から着替えていない。離れには侍女もおらず、持ち込んだ荷物もまだ開けられないままだった。「着替えを手伝ってくれる者がおりませんでしたので」「言い訳はいい。公爵夫人なら、もう少し身なりに気を遣え」 エレノアは唇を噛んだ。 昨夜、執事が届けてくれたのは燭台と毛布だけだった。 寝台には埃が積もっていて、とても横になれなかった。結局、椅子に毛布をかけ、ほとんど眠れないまま朝を迎えたのだ。「それで、今後の待遇についてお話があるとか」 エレノアが尋ねると、ヴィンセントは椅子に深く腰掛けた。「ああ。いつまでもあんな場所で暮らしたくはないだろう?」「当然です」「なら、話は簡単だ」 ヴィンセントは机の上に一枚の紙を置いた。「これに署名しろ」 エレノアは差し出された紙に目を通した。 そこには、今後は夫の意向に従い、公爵夫人としての務めを果たすことを誓う、と書かれていた。「……これは」「お前が約束を守るなら、元の部屋に戻してやる。侍女もつけよう」「夫の意向に従う、というのは?」「わかっているだろう。もう寝室で騒ぎを起こすなということだ」 エレノアは紙を机に戻した。「署名できません」 ヴィンセントの眉が跳ね上がった。「まだ強情を張るつもりか?」「私の意思を無視して寝室に押し入ることを、やめていただきたいだけです」「お前は俺の妻だぞ!」 ヴィンセントが机を叩いた。「跡継ぎを産むのが、お前の役目だろう!」「そのために、あの離れに閉じ込めたのですか?」「お前が素直に言うことを聞けば済む話だ」 エレノアは目の前の紙を見つめた。
日が暮れ始めても、誰も来なかった。 エレノアは離れの窓から、何度も本邸へ続く小道を眺めた。 執事は寝具を届けると言っていた。食事も運ばれてくるはずだった。 けれど、夕暮れの庭園には人影ひとつない。 窓辺に立ち続けているうちに、足が痛くなってきた。 椅子には埃が積もっている。仕方なくハンカチを敷いて腰を下ろしたものの、座面から舞い上がった埃に咳き込んでしまった。「……どうしましょう」 もう一度、寝室を見回す。 日が落ちれば、明かりも必要になる。けれど、燭台はあっても蝋燭が見当たらなかった。 このまま夜になったら、真っ暗な部屋で過ごすことになる。 そのとき、ようやく扉の開く音がした。「奥様、お食事をお持ちしました」 若い下働きの娘が、盆を抱えて立っていた。「ああ、よかった。あなた、少し待ってちょうだい」 エレノアは思わず駆け寄った。「寝具はまだ届いていないの。それに、この部屋のお掃除も……」「申し訳ございません。私はお食事を運ぶようにとしか」「では、ほかの方を呼んでいただける?」 娘は困ったように視線を落とした。「離れには、ほかの者を寄越さないようにと言われております」「……誰に?」「執事長でございます」 エレノアは言葉を失った。 娘は小さな卓の上に盆を置くと、慌ただしく頭を下げた。「それでは、失礼いたします」「待って!」 呼び止めると、娘はびくりと肩を震わせた。 エレノアはその様子に気づき、声を和らげた。「せめて、明かりを持ってきてもらえないかしら。夜になったら何も見えなくなってしまうわ」「……聞いてまいります」 娘はそう答え、逃げるように離れを出ていった。 卓に残されたのは、冷めかけたスープと硬いパンだった。 水の入った杯もひとつだけ。 エレノアは盆を見つめた。 食事を運んでくれた娘が悪いわけではない。 けれど、なぜこんなことになってしまったのだろう。 やがて窓の外が暗くなり、部屋の隅から闇が広がり始めた。 娘は戻ってこなかった。 エレノアは扉の近くに立ち、廊下へ目を凝らした。 暗闇の中で、どこかの木材がきしむ音がした。「……誰か?」 返事はない。 もう一度呼びかけようとしたとき、外から足音が聞こえた。 ようやく明かりを持ってきてくれたのだろうか。 エレノアは扉に駆け寄った。
「……ここで暮らせとおっしゃるの?」 エレノアは、目の前の建物を見上げた。 公爵邸の庭園の奥に建つ、古い離れだった。 外壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥がれている。屋根の一部には苔まで生えていた。「公爵閣下のご命令でございます」 執事は淡々と答えた。「奥様には、しばらくこちらで静養していただくようにと」「静養……?」 エレノアは思わず聞き返した。 どう見ても、人が療養するような建物ではない。 扉を開けると、かび臭い空気が流れ出してきた。 廊下には埃が積もり、壁際には蜘蛛の巣が張っている。窓は汚れで曇り、昼間だというのに薄暗かった。 寝室に案内されると、エレノアはとうとう言葉を失った。 寝台にはシーツもなく、天蓋には大きな蜘蛛の巣が張っていた。 古びた布をかぶせられた家具は、触れただけで埃が舞い上がりそうだった。「……お掃除は?」「急なご命令でしたので、準備が間に合いませんでした」「では、侍女を呼んでいただける?」「本邸の使用人は、こちらへ常駐いたしません」「……え?」 エレノアは執事を見つめた。「では、誰がこの部屋を片づけるの?」「必要なことがございましたら、お申しつけください」「誰に?」「お食事をお運びする者に、お伝えいただければ」 エレノアは言葉を失った。 水差しも、洗面道具もない。 暖炉には古い灰が残り、薪も用意されていなかった。「……今夜は、どうやって眠ればいいのかしら」「寝具は後ほどお届けいたします」 執事はそれだけ告げると、一礼して部屋を出ていった。 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。 エレノアは、ひとり取り残された。 部屋を見回しても、座れる場所さえ見当たらない。 寝台は埃だらけで、椅子には蜘蛛の巣が張っている。 これまで、部屋が汚れていたことなど一度もなかった。 朝起きれば、侍女が洗面の支度を整えてくれた。夜には湯が用意され、寝台には清潔なシーツが敷かれていた。 そのどれもが、今はない。 エレノアは寝室から廊下へ出てみた。 けれど、どの部屋も同じように荒れ果てている。 呼び鈴を探しても見つからず、誰かの名前を呼んでみても返事はなかった。 どうしたらいいのだろう。 誰に頼めば、この部屋を使えるようにしてもらえるのだろう。 エレノアは途方に暮れた。 こんな場所で一晩
鍵が外れた。 エレノアは扉から後ずさった。 昨夜はテオドールが助けてくれた。けれど、今夜は誰もいない。「エレノア、椅子をどけろ」 扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。「お断りいたします!」「いつまでそんな真似を続けるつもりだ!」 扉が強く押され、前に置いた椅子が床をこすった。 エレノアは慌てて寝台の反対側へ回った。 もう、逃げ道はない。 やがて椅子が押しのけられ、扉が開いた。「……ずいぶん手間をかけさせてくれたな」 ヴィンセントが入ってきた。 背後には、鍵を開けた使用人が控えている。「下がれ」 ヴィンセントが命じると、使用人は頭を下げて立ち去った。 扉が閉まる。「さて、エレノア」 夫はゆっくりと近づいてきた。「今夜こそ、妻としての務めを果たしてもらう」「嫌です」「まだ言うか!」 ヴィンセントが腕を伸ばした。 エレノアは身をかわし、化粧台のそばに逃れた。「近づかないで!」「私を何だと思っている!」「私の言葉を聞いてくださらない方だと思っています!」 ヴィンセントの顔が怒りに染まった。「お前は本当に、どうかしてしまったようだな!」 そのとき、エレノアの指先が化粧台の上の小瓶に触れた。 香水瓶だった。 エレノアはそれをつかみ、床に投げつけた。 甲高い音とともに、瓶が砕け散る。「何をする!」「それ以上近づかないでください!」 エレノアは震える声で叫んだ。「これ以上無理強いなさるなら、窓を開けて助けを呼びます!」「……何?」「使用人にも、庭にいる者にも聞こえるように叫びます。公爵様が妻に何をなさろうとしているのか、皆に知っていただきます!」 ヴィンセントの動きが止まった。 彼が恐れているのは、妻が傷つくことではない。 自分の評判が傷つくことなのだ。「……私に恥をかかせるつもりか」「あなたが何もなさらなければ、叫ぶ必要はございません」 ヴィンセントはしばらくエレノアをにらみつけていた。 やがて、忌々しげに舌打ちした。「勝手にしろ!」 乱暴に扉を開け、部屋を出ていく。 エレノアは、その場に崩れ落ちた。 怖かった。 けれど、今夜も守り抜いた。 あと一年。 この調子で、本当に乗り切れるのだろうか。 ◇ 翌朝、エレノアのもとに執事が訪れた。「奥様。公爵閣下より、お伝
「明日の夜は、誰もお前を助けには来ない」 ヴィンセントの言葉に、エレノアは血の気が引くのを感じた。 この男は、何をするつもりなのだろう。 妻が拒んでいることを知りながら、護衛騎士を追い出し、誰にも邪魔されない状況を作ろうとしている。 しかも、それを隠そうともしない。「……私が嫌だと申し上げても、寝室にいらっしゃるおつもりですか?」「当然だ。お前は私の妻なのだから」「それは、夫婦だからという理由で、私の意思を無視してもいいということですか?」「またその話か」 ヴィンセントはうんざりしたように眉をひそめた。「いつまでも子供じみたことを言うな。結婚した以上、妻には果たすべき務めがある」 エレノアは、つかまれた腕に残る赤い痕を見下ろした。 昨夜の恐怖が、まだ身体に残っている。 それなのに、この男は何ひとつ反省していない。「……わかりました」 エレノアは静かに答えた。 ヴィンセントが満足そうに口元を緩める。「ようやく理解したか」「いいえ。あなたが私の言葉を聞くつもりがないことを、理解しただけです」「何だと?」「これ以上お話ししても無駄ですわ」 エレノアは夫から目をそらさなかった。「ですが、私の答えは変わりません」 ヴィンセントの表情が再び険しくなった。「……勝手にしろ。明日になれば、嫌でも自分の立場を思い知るだろう」 そう言い捨てると、彼は部屋を出ていった。 扉が閉まる。 エレノアは、その場に立ち尽くした。 怖くないと言えば、嘘になる。 けれど、ここで屈するわけにはいかなかった。 あと一年。 夫婦関係を持たずに一年を過ごせば、婚姻無効を申し立てることができる。 そのために、今度こそ自分の身体を守り抜かなければならない。 ◇「申し訳ございません、エレノア様」 テオドールは深く頭を下げた。 彼の部屋には、すでに荷物がまとめられていた。「私のせいで、このようなことに……」「あなたのせいではないわ」 エレノアは首を振った。「悪いのはヴィンセント様よ。あなたは私を守ってくれただけ」「ですが、結果としておそばを離れることになってしまいました」 テオドールの声には、悔しさがにじんでいた。 エレノアは、彼の手元に置かれた旅行鞄を見つめた。 幼い頃から、テオドールはいつもそばにいてくれた。 父親の領
翌朝、エレノアは父親に宛てた手紙を封筒に入れ、封蝋を施した。 昨夜、ヴィンセントがリリアーナと庭園の木陰へ消えていった光景を思い出す。 前の人生なら、きっと一晩中泣いていただろう。 けれど、今は違う。 あの二人が何をしていようと、もう構わない。 問題は、ヴィンセントがエレノアを放っておいてくれないことだった。 妻としての務めを果たせと怒鳴り、拒めば力ずくで従わせようとする。 あの男と同じ屋敷で、あと一年を過ごさなくてはならない。 そう考えるだけで、気が重かった。「この手紙を、実家へ送ってちょうだい」 エレノアは、朝の支度を手伝っていた侍女に封筒を渡した。「承知いたしました、奥様」「なるべく早くお願いね」「はい。すぐに執事へお渡しいたします」 侍女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。 エレノアは、ほっと息をついた。 父親は、娘の結婚を心から喜んでくれていた。 まさか、その結婚がこんなことになるとは思っていないだろう。 前の人生では、父親に夫婦の問題を打ち明けたことなど一度もなかった。 結婚した以上、夫に従うのが妻の務め。 愛されなくても、我慢するのが当然。 そう信じていたからだ。 けれど、今は違う。 父親が事情を知れば、きっと力になってくれる。 少なくとも、ヴィンセントが一方的に夫婦の務めを強要することについて、相談できるはずだった。 エレノアは窓の外を見つめた。 朝日を浴びた庭園は、昨夜の出来事など何もなかったかのように美しかった。 ◇「ヴァレンティア伯爵宛ての手紙?」 執務室で書類に目を通していたヴィンセントは、執事の言葉に顔を上げた。「はい。奥様からお預かりいたしました」 執事が封筒を差し出す。 差出人には、エレノアの名前が記されていた。 ヴィンセントの眉間に、深い皺が刻まれる。「……何を書くつもりだ?」「内容までは存じません」「貸せ」 ヴィンセントは封筒を受け取ると、ためらいもなく封を破った。 執事は一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。 手紙には、結婚初夜からの出来事が簡潔に記されていた。 夫が義妹の部屋で夜を過ごしたこと。 夫婦の寝室を共にするよう求められたが、拒絶したこと。 そして、昨夜は無理やり寝台へ連れていかれそうになり、護衛騎士に助けられたこと。 最後に